2013 年の 10 月。
父が埼玉の病院に入院していたため、
ちょこちょこ見舞いに行っていたんです。
ちょうど父と居合わせていた時に、
突然、父の携帯電話に、
訃報の連絡が、島根県警から入りました。
姉が、心肺停止で、病院に運ばれたとのことでした。
死後、しばらく経っていると告げられましたから、
助かるはずもあ りません。
身内が、いきなり死んだんです。
今回は、その事をきっかけに、
自分なりに、観えたことについて、書いていこうと思います。
訃報を聞いた日は、既に夕方 4 時頃でしたから、
飛行機で帰る便は既にありません。
羽田空港のホテルに泊まり、
翌日、出雲空港に向けて、朝一で向かいま した。
実家に帰り、そこに見えたのは、姉の遺体でした。
周りには、親戚の方がいらっしゃって、
それぞれ家の掃除や、世話をしてくれている。
これが自然死でな いことなど、
明白なんだけれども、誰もその事を口にしない。
不思議な空気に包まれたまま、葬式が始まりました。
そして 12 年前に祖父が亡くなった時以来となる、
同じ火葬場へ行って、遺体を灰にして、お墓に入れました。
1 週間後に、姉の住んでいたアパートに、
片付けに行く事になるんです。
住んでいた部屋に入ったときに、あまりの汚さに鳥肌が立ちました。
ドアを開けると タバコのにおいが強烈すぎて、
マスクをしないと入れないほどでした。
リビングには、飲んだ後の缶ビールや酒の瓶が、
山のように散らかっていました。
寝室に入ると、みたこともないほど、
でかいベッドがどんと置いてある。
そのキングサイズのベッドに、失禁した跡が大量に残っている。
睡眠薬を飲み過ぎて、
もう起きられ なくなっている状態だったということが、
この光景で理解できました。
クローゼットには、何十着もの大量の服がかかっていました。
どれもこれも、少なくとも 数万円、
あるいは十万円以上はしたんだろうと思える、
ジャケットやドレスが置いてありました。
あまりの大量の荷物や、ゴミの多さに、
自分で片付けることを 断念しました。
後日、片付け屋さんを手配して、
4 トン車で丸々持って行って貰いました。
もう本当に、早いこと終わらせたかったですね。
日本は、本当に豊かになった。
僕らが、ガキの頃と比べても、格段に豊かになった。
同時に、どんどん社会が行き詰まってきた。
結局何を求めて生きて良いのか分からなくなってきた。
建前ばっかり取り繕う、
本末転倒な生き方が、はびこる世の中になったんだと思います。
日本の田舎町でさえも、物質的な豊かさを求めていく、
限界値に達してきたんだと思います。
僕が後に広島に移って、
商売道具以外は、自分のモノを、
極力持たないようにしているのも、
この時の体験が大きいです。
もう本当に、ハードを求めていく時代は、終わったんだと思います。
これからは確実に、
ソフトを求めていく時代に切り替わっていくでしょう。
後に、地球旅館をや っていて、
多くの⻄洋の方と触れあっていました。
彼らが、まさにソフトを大事にしている生き方をしています。
歴史的に観ても、彼らはもう何十年も前から、
そういった問題と向き合ってきました。
日本は、今、この局面に立たされています。
話は戻りますが、この時期を境に、
僕は、ほとんど誰とも、連絡を取らなくなりました。
人間関係が嫌になって、
携帯電話は常に電源をオフにしていました。
そこには、不幸が入ってくるようなモノとしか、思えなくなっていました。
そんな心理状態が、2018 年頃まで続いたんです。
もう誰も信じられない。
その状態を 保ったまま、広島で 2015 年から住み始めるんです。
それは、海外さん向けの宿をやってみたいと思う、
ポジティブな気持ちも勿論ありました。
しかしながら、 僕が、ムラ社会や、今までの人間関係を、
一切合切、遮断したいと思った、
ネガティブな理由の方が、圧倒的にウエイトは大きいです。
もう二度と、日本人社会と の関わりはしないと、
心に固く決めていましたから。
広島に移り住んでから、1 年間友達が全く居なかったんです。
それが楽しくて楽しくてしょうがなかったんで す笑
今思えば、本当に異常な心理状態の最中だったんでしょう。
そんなニンゲンでさえ、なんとか立ち直って、
こうやって皆様と繋がろうとしているわけです。
原動力は、こんな思いをしているのは僕だけじゃないから。
僕は、あのムラ社会を抜け出せて、復活しましたから。
時空を越えて、
こういった事に行き詰まっている方々と、
しっかり向き合っていきたいと思っている、
今日この頃なんです。
ちょっと重い話でしたが、
今はこうやって言語化できるようになりました。
まさに、人間万事塞翁が馬!
ご一読頂き有り難う御座いました!
次回は、
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