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おじいちゃんは、インパール作戦からの、奇跡的な生還者だった噺

陸軍伍長 須田義忠 大正五年三月十七日生

軍歴

昭和15年10月 西部第十部隊に応召

昭和15年11月 広島市宇品港より中国へ向けて出港

昭和16年4月 香港遮断作戦開始

昭和17年1月 九龍出発 広東警備

昭和18年3月 パラオ諸島ガラスマオ上陸

昭和18年7月 ニューギニア ハンザ上陸 

昭和19年2月 台湾高雄上陸

昭和19年4月 プノンペン上陸 バンコクへ

昭和19年6月 ビルマ マンダレー到着 インパール作戦参加

昭和20年1月 メークテーラ付近での大会戦 

昭和20年5月 転進作戦 

昭和20年8月 メソードで終戦

昭和20年10月 バンコク出港

昭和21年6月 浦賀常陸 復員

 

以下全文 戦士の記録より引用

濠北作戦からインパール作戦に参加。間断りなく降り続く豪雨、道は河をなし、泥に膝を没し、弾薬は既に途絶。くわえて我空軍は壊滅し、昼夜の別なき重爆撃、飢餓と悪疫に倒れる者跡を絶たず。屍臭は鼻をつき、屍体にたかる蠅の群、未だ息のある者の目鼻口に真っ黒く群がる蝿。負傷者の口にはウジがうごめき、地獄絵図を現出した。修羅場を駆け巡り、死地を切り抜けて生還することを得た。今は亡き戦友の冥福を祈る毎日である。

 

以下全文 インパール作戦 wikipediaより引用

インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦〈ウごうさくせん〉)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。当作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ。兵站を無視し精神論を重視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫したため、「無謀な作戦」の代名詞として、しばしば引用される。

 

この文章をネットや本から写しただけで、

涙が溢れてきたよ!

 

おじいちゃん!

本当に有り難う!

俺も闘うぞ!

 

ご一読頂き有り難う御座いました!

 

次回は、中学生の頃 

ヤクザ校長が集めた教員達は、県屈指のプロ教育集団だった

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