「Hisaya、ロシアに仕事に行ってみないか?」
大学時代の最後の冬に、
建築関係のアルバイトをしていたんですが、
その社長から、ロシア行きを誘って頂いたのが
2005年の7月頃。
当時から海外生活に凄く憧れがあり、
シゴトは何でも良いから、とにかく海外に行ってみたいと、
常々思っておりました。
どうやら給料も、日本の2倍以上もらえて、
立派なマンションにもタダで居住できるらしい。
これは行くしかないと思い、
2005年の11月より、モスクワに向かうことになります。
僕が入らせて頂いた、その建築現場は、
日本人の作業者のみ立ち入りが出来る施設でした。
そのため、ロシア語どころか、英語すら全く話すこともなく、
100パーセント日本語環境で、モスクワ生活がスタートしました。
建築の職人さんが、日本全国から、30-40人くらい集まっていて、
それぞれ方言丸出しで、モスクワでシゴトをしているわけです笑
今思い出すと、揉まれに揉まれた、渦のような現場でした。
そこでのニンゲン模様も、凄く面白かったんです。
みんな野人のような方々でして笑
朝8時から5時まで、働いてから、
夜はしょっちゅう、皆で鍋をして、大酒を呑む。
毎日大声出して、すっきりしてから寝るという笑
なんとも健全な労働生活を、1年近く行いました。
そして日曜日は、日本から持ってきたガイドブックを持って、
ブラブラ街を歩いてみるわけです。
ロシアは、英語はほぼ通じません。
看板もアナウンスも、すべてロシア語ですから、
たとえば地下鉄に乗るとなっても
それだけで、かなり難易度高い国なんですね。
さらに電車内で、彼らは寒くて顔がこわばっているのか、
誰も笑ってないですし笑
最初の頃は、独りでの行動は慎んで、
郊外にあるバザールに、毎週の様に、
職場の皆と通っていました。
ただ、それも飽きてきて、
だんだん独りで街を探検することになります。
その道すがら、お土産屋さんで働いていた、
3歳下の女の子 マーシャと仲が良くなりました。
彼女と一緒にライブハウスに行ってみたり。
そこで日本語が出来るロシア人の女の子と知り合って、
一緒にご飯を食べに行ったり。
そして、その子の働くレストランに行ってみたり、
一緒に郊外の公園を散歩してみたりと。
土曜の夜と、日曜日は毎週楽しみでしたね笑
23歳の時点で、
海外の日常を、現地の方と一緒に垣間見ることが出来て、
本当にいろんな事を学びました。
ここでも雑談を通して、
その世界で生まれてきた方々の価値観に、
じかに触れることが出来たんです。
海外の方と、ざっくばらんに色んな話をすると、
考え方が柔らかくなるというか、
多面的に物事を観ることができるようになるというか。
その数年後、
ワーキングホリデーにオーストラリアに向かうんですが、
モスクワ時代の、これらの体験が前提としてあって、
自分を、再び海外に向かわせたんだと思います。
ロシア労働時代も、
カラダは結構辛かったけど、楽しい毎日だったなあ!
ちなみに、このお仕事を紹介して頂いた社長さんは、
軽作業系の工事を主に行う建築業を、20年以上営んでおられました。
いわゆる雑工ってやつですね。
職人さんがやりたがらない作業専門の、
建築現場での便利屋とでもいいましょうか。
ちょっとした雑工事を専門に扱うような、立ち位置でして。
今思えば、その業態が絶妙だったというか。
現場のバリバリの職人さんは、
こんなしょうもないシゴトをしてられるかって、
ハッキリ突っぱねる訳です。
職人さんに、ある意味、鼻で笑われるような作業を、
社長は柔らかく対応していく。
現場を仕切る監督の要望に、ひとつひとつ丁寧に対応していく。
それをコツコツやって、社長は、桁違いの億万長者になった。
その社長から、雑用億万長者としての、
学びを受けていたような1年間でした。
もう引退されたので、このハナシを公開しますけれども。
一時は100人近くを、4-5年間同じ現場にぶっ込んで、
ウハウハな生活をしていたそうです。
雑用社長として、月1000万は軽く稼いでいたでしょう。
その便利屋に似た、地域ビジネスを、
ヒロシマでつくりたいと思っていますが、
そういった凄腕の社長に仕えていた時代が、
自分の土壌として大いにあるんだなと思います。
大学出て、お前何やってんだって
その当時、現場の職人さんに言われてましたけど、
全くもって見当違いです笑
自分にとって、
めちゃめちゃな学びが見いだせると、価値を見いだしたから、
こんなことしてたんです。
ご一読頂き有り難う御座いました!
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